冒頭に掲げた柳宗悦の言葉は、日常の生活のあり方であり、生活を深めるなら、美しいものは不可欠となる。
私は福岡市に建築設計事務所を構え、週末には佐賀県の三瀬村で、自然に囲まれた“風流暮らし”を実践している。
そして「三瀬会」という花いけの会をつくり、毎月一回三瀬に集まって山野を散策し、いけ花を楽しんでいる。
本書で紹介するいけ花は、「すっきり」を重んじている。百本のバラは固めると美しい。
しかし、三本のバラをいける方が経済的かつ美しい。

昭和の初め、白州正子は一度も会ったことがない西川一草亭を花の師とした。
西川一草亭のいけ花は、花と器が調和している。

暮らしの中に花の美を取り入れようとしても、リタイアしたからすぐに花いけができるものではない。
また、お茶を入れることは誰にでもできるが、茶を点てることはすぐにできない。
すべて基本の段取りが必要となる。少なくとも、リタイアの三年前からその準備を必要とするだろう。

かつて私は、福岡の甘木に「働、学、遊」の考えをもって町をつくる計画を立てた。「美奈宜の杜」構想である。
そこでは四時間働き、学び、健康のために遊ぶということを考えた。こうした千戸単位の街を全国に百ヵ所以上つくり、
都市から田舎へ人々の移動を図る。人々が移動することで都市に“間”ができ、住みやすい都市になる、という構想であった。
“間”のある街のモデルは、「花いけと建築と街づくり」の章で紹介している、福岡市内のけやき通りや浄水通りで
私か設計した建物である。
都市につくる建物は、三百年保つ建物とする。これは資産となる。三百年という時間の永さに耐えるためには、
街には間があり美しくなければならない。

「働、学、遊」の「働」は、自分が食するもの、米、野菜、味噌など食の基本を一日四時間の仕事でまかなうということだ。
「学」は、孔子の言う「仁」の人であり、「遊」とは、暮らしの花であり、結実である。
本書で紹介している三瀬の風流暮らしは、この「遊」の実践である。

「働、学、遊」の三位一体の考えは、心身の健康を保持し、精神的ゆとりを深め、生きがいを増幅する。
日本は福祉で行き詰まっている。福祉か経済かの苦しい選択を迫られている。
この本の根底にある考えは、年をとったら自然の中で暮らし、病院やケアに頼らず健康で長生きする生活への転換である。

かつて、民芸運動があった。暮らしの中に美を求めようとするこの運動は、建築の世界や他の分野にも大きな影響を及ぼした。
私は、西山卯三が始めた「新建」という建築運動団体の会員である。
わずか千名足らずだが、日本の建築運動として永きにわたり続いている。自主的に街づくりを志す建築家集団である。

ひとくちで言うに、国は平和であることを最大の目的とすべきである。
平和で一生安全に健康に暮らすことができることに尽きる。建築運動は、社会の荒廃を防ぐことにつながっている。

私はバブル後の建築設計の方向性として、三つの基本方針「シルバータウン」「三百年住宅」「街づくり」を定めた。
この三方策を日常の仕事の中で考え、実践することで、少しずつ社会が変わることを目標としている。
バブル後の現代において、三つの基本方針に基づきながら、街の創造と再生により需要を創り出し、そこに「金の流れ」をつくることが不可欠であろうと思う。そのことが内需をつくり、企業の繁栄、ひいては日本の平和的成長があると思う。

小学校の三年生で花をいけた。
花の好きな母がとても喜んだ。母の喜ぶ顔がもっと見たくて、上手に花をいけられるようになってやろうと思い、小原流の先生にいけ花を習い始めた。それ以来、家の玄関に花が絶えることはなかった。一週間の花代は、大工の日当と同じであった。やがて、花を習っていることを知った小学校の先生に頼まれて、学校の記念行事や卒業式に花を生ける事が多くなった。くすぐったいような、華やかさであった。大学で再び花を始めるようになった。きっかけは当時“何でも見てやろう”の小田実の「1日1ドルの旅」にあこがれ世界へ放浪の旅に行こうと思った事からだった。世界各地を旅しながら、その国の花々をいけることが、私の旅の手段となるはずであった。
いけ花の方は家元三級に合格するも、旅費の工面が出来ず旅の夢は消えてしまい、大学でいけ花は終わった。
設計事務所をつくり、地主さん3人から指名がかかり、マンションを設計しなければならなかった。そのとき建物の造り方にいけ花の手法を生かそう考えた。けやき通りを花の器に見立てれば、建物は花である。2つの建物が完成し分譲マンションとしては珍しく第1回の福岡市都市景観賞を頂いた。「いつかはシャトレ」のキャッチコピーと共にマンション業界に少なからず衝撃を与えた。
事務所をけやき通りに移し、みんなで会をつくり自主的にけやき通りの環境づくりを始めた。国からの協力も得て福岡で一番の通りになっていった。
通りは800メートルあり、けやき通りをまとめる方法の1つが外壁の色だった。新しくつくる建物の外壁の色をそろえることで、すっきりした統一感のある通りがつくられていった。
二番目に建物と歩道との間に塀を造らずオープンスペースを設けた。オープンスペースにより歩道、車道、建物がストレートに接することなく、いけ花で言うところの足下がよくなった。オープンスペースをつくり、ここに緑を植えると通りが優しくなる。シャトレには桜の木を植えて通りの名物となった。ユニカのオープンスペースでは長さ120メートルの建物の前を4メートル開けて緑地帯をつくり、こぶし、エゴ、ヤマボウシ、桜を植え、白い花を2月から5月まで咲かせている。脚元はクチナシの白い花を咲かせている。 

通りを美しくする運動が評価され、けやき通りは福岡県で唯一「新日本街路樹百景」に選ばれ、ライトアップ等の景観保全運動は第11回福岡市都市景観賞を頂いた。建物ではなく、無形の活動そのものが受賞するのは初めてのことであった。

1989年に百道浜のコンペで初めて「300年住宅」を提案した。主催者からは1,600戸の住宅づくりを求められていた。街の大事な背骨にあたる軸は、能古島と志賀島の中間と百道浜を結んだ線を街づくりの中心線とする計画であった。新しくつくる街に300年住宅の街づくりを提案した。300年住宅をマンションにおいて要約すると5つのこととなる。
(1)強い、長持ちする躯体を造る。
(2)設備が変更し取り替えが出来るようにする。
(3)時代や生活に応じた自由を得ること。
(4)金融を100年間の支払いに変えること。
(5)共用の設備を道路並みに第三者が管理すること。
この5つを進めると一生安心して住めるマンションが出来ることとなる。
人が長く住み続けるには、美しい街をつくることが不可欠となる。
また、街へのアクセスや施設づくり、そして百道の特徴の海との景観づくりが美しい街づくりを提案した。また、街への高速道路の進入は、オーストラリアのパースを見本とした。高速道路は土手で造られていた。結果は、「300年住宅は、意味不明」で見事落選することになった。審査員は10人中7人が市の職員だった。
その後、コンペの結果に刺激され、諦らめず社会的に必要と判断し、考えたことを造るべく、1999年にアトリエ平和台を造り、300年住宅の内容と意義を自ら証明した。見学者は、森ビル社長、リクルートの江副氏はじめ2000名を超えた。2002年にはアトリエ大濠を造り、美しく進化させた。特に4m×4mのガーデンバルコニーは、初めての試みとなった。2011年には、長期優良住宅先導的モデル事業で4つの建物223戸を造った。詳しい内容は『300年住宅のつくり方』に述べている
この提案により50年後に共用の配管が住みながら全て取り替えできる仕組みの完成を見ることが出来た。外配管に全てのマンションが変更になれば住み手の安心さが増すことになる。
今、この運動を全国に向けて展開中である。この方式が新築において定着すれば、大規模修繕を行う技術提供となり、現在のマンションの長命化となりうる。一番大切なのは現在のマンションをあと何年必要とするのか決める事である。尋ねると50年~60年との答えが多い。しかし、100年住み続けられるようにするには現在の内配管共用設備の全取り換えが必要となる。300年の外配管づくりは、その必要に応えることができる。

300年住宅の意義を自著から抜粋すると、次のようなものがある。
・後世に残せる住宅と環境を作ることこそ我々が果たさなくてはならない重要な使命
・また20世紀は自分たちが豊かになることを追求
…21世紀は自分たちよりも子供たちが豊かに
・土地から建物への価値の転換……300年住宅は日本経済における新たな信用基盤形成。
・“百年の計”に基づき、経済と社会を考え、建築を改革する運動である。

尚、「300年住宅のつくりかた」の帯の推薦文では、法政大学の五十嵐敬喜先生から次のようにお言葉を頂いた。
「建築だけでなく、流通や金融などの改善を含めてその可能性を追求してきたという
一点でリアリティを持っている」

美奈宜の杜は、筑後平野に面した山々である。頂上は大仏山といい、応神天皇の熊襲征伐伝説の地である。この地より矢を作られたことが伝わっている。福岡の水瓶である寺内ダムに寄り添っている。ここに、リタイアされた人々の1000戸の街をつくる計画である。9ホールのゴルフ場を中心に街の景色をつくり、1,000戸の住宅と施設をつくる計画である。
ゴルフ場の位置が決められ、大仏山の頂上を切断することになった。
考えたことは、頂上を切断するに当たって山で言うと7合目、8合目を残した。ここは、緑で包まれていた。残った景色は、平らな山頂となった。
なぜ甘木なのか。全国より人が集まる、そして健康になる。理由は、自然の中に暮らすことであるとしている。中央に大河である筑後川が流れている。果物や米が良く育つ豊饒の地である。いつも植木の育ち方で知る人間にとっての大事な水分を毎日繰り返し大地より生じさせている。水は植物を育てる。霧となって雲になる。その営みの中にある。美奈宜の杜は丘である。筑後川を通り水分を含んだ風が街を通る。
街からの眺めは山があり屏風状の耳納山が目の奥行きを止めるように連なっている。
私の、この土地の理解である。
リタイアした人だけが集まる街で、果たして成立するか、現代の乳母捨て山でないかと言われ続けた。しかし、開発から20年以上が経ち、街も住民も成熟し、非常に良いコミュニティが形成され、人気の高い住宅地となっている。
同じ世代の人々がより人生を高める街になれば年を経ることは経験、知恵、人格すべてにおいてすばらしいと思う。若い人との交流がなされてきたのが歴史である。ケアや施設的に見ると押し込められ自由を失うことになる
私は、人間の住まいは『互恵』の気持ちで楽しく住むことである。この地に『労・学・遊』という3つのコンセプトで街をつくろうと思った。働くことにより人はものを深く知り、日常を工夫すること出来る。そして少なくとも『労』より経済を得ることである。また、その『労』が“農”であれば自分の食べ物となり、またこれは経済といえる。リタイア後のため一日4時間の『労』を行うことを目標としている。『学』を一口に言うと「仁」を目指すことである。よい人になることである。
知識は物事を深く理解したり、知ることにより楽しみをつくる。目指すところはその日に向かって不安のない日々の過ごし方といえる。孔子は、“仁”を五つの文字に分けて教えている。
“恵”恵む心
“寛”ゆるす心
“信”相手を信じる
“敏”行動
“礼”国を治める基本
人生の総括を行い、その日に向かって不安なく健康に過ごすことが人間の営みである。

 

今、私が取り組んでいるのは自然エネルギー計画である。東日本大震災以前の平成22年度の貿易収支は、6.6兆円の黒字だった。震災以降は貿易収支は赤字に転じている。原因は燃料の輸入増加によるもので、年毎に発電燃料費が1兆円増加しており、今年度は8兆円となる見込み。この出血が続くことは、国にとって命にかかわる重要なことである。
今、この問題解決のために、夢物語かもしれないが農家が水田面積のうちの3割を利用し、稲を育て刈入れた後の水田で総発電量の20%のエネルギーをつくる太陽光発電を提案したい。

多くの原発が稼働停止していることで、燃料費が高騰し、貿易赤字が拡大している。血が流れ続け止まらない。

これを補うため、稲を刈り入れた後に、田んぼで太陽光発電する、

新しい二毛作(米と電気)を行い、赤字を止めるという考えである。
太陽光発電は全農家数の約半分に当たる72万戸に対し、水田1町当たり360万円の年収となります。原子力による発電量の70%を解決し、最も身近でできる自然エネルギーづくりである。

 

    ※シルバータウンとエネルギー問題の詳細については、「シルバータウン構想」のページをご参照下さい。

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